ジャン・リュック・ナンシー『共出現』

共出現

共出現

  • 作者: ジャン=リュックナンシー,ジャン=クリストフバイイ,Jean‐Luc Nancy,Jean‐Christophe Bailly,大西雅一郎,松下彩子
  • 出版社/メーカー: 松籟社
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本
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 私たちは共出現する。私たちは共に世界に到来する=誕生する。それは(例えば人々が「共に連れ立って」映画に行くように)他と明確に区別される複数の実体的存在が同時に産出されるということではない。そうではなく、根本的に共同でないような誕生は存在しないということだ。それは「共同なるもの」そのものである。世界への到来=誕生すること [venir au monde] と、共ーにー存在することは等しい。この真理から絶えず遠ざかること(私はそれを抑圧とは言わない、それではあまりに事を単純化することになる)によって、(哲学についての)西洋的思考の一定不変の規則が作り出されてきた。—p. 74

 怒りは優れて政治的感情である。怒りにおいて問題なのは、容認し難いこと、耐え難いことであり、また拒絶や抵抗である。この抵抗は自らが理性的な仕方で成し遂げうるすべての事柄の彼方へと一挙に投げ出される——それは理性的なるものについての何らかの新たな交渉の道、また決して妥協のない監視の道、そうした様々の可能な道を切り開くためである。怒りなくしては、政治は気休めの妥協や職権乱用にすぎず、またそうしたことについて怒りなしに書くことは、書き物の持つ魅惑を乱用することである。—p. 82

 コミュニズムが言わんとするのは、存在は共同性 [共同なるもの commun] のうちに [en] あるということだ。私たちは、「存在する」限りにおいて、共同性のうちにあるということを、それは言う。私たちは共同に存在しているということ。私たちのどの一人であれ、私たちの間のどの一人であれ、共に、共同に存在しているということを言わんとする。(私たちの間に、だが「間に」とは何であるのか、間には、「間に」のなかには、「間に」として、何があるのだろうか、ソレ [ça] だけが問題なのだ。)—p. 90-91

 コミュニズム存在論的な命題=先行措定 [proposition] であって、政治的オプションではない(しかし、存在論的な命題=先行措定とは何であるのか、ここに問いのすべてがある——この問いに対して、共にー「に」ー存在すること [l'être--commun] の外部で答えることはもはやできない)。「存在」それ自体(脱自性の存在)が担保に引き入れられ、決定=決断され、選択されねばならない範囲において、コミュニズムはひとつの政治的オプションとなる。—p. 91