宮崎広和『希望という方法』

希望という方法

希望という方法

 知の方法としての希望は、<既に - ある>ものについての達成感、あるいは<もう - ない>ものへの郷愁といった形で過去へ向いた知識を、再び未来へ、<まだ - ない>ものへと向かわせる。したがって、[...]「希望(hope)」は、明るい未来が必ず待っているというような「楽観主義(optimism)」とは違う。「希望という方法」は、確定され、固定されたかに見える知識を再び未来へ向かって開くために、知識を揺さぶり、突き動かし、何らかの動きを与えようと積極的にはたらきかける。もっとも、このようにして動かされた知識が最終的にどのような結果をもたらすか、あらかじめ知ることはできない。そういう意味で、「希望という方法」は、知識を不確定な状態へと導く。そして、こうして作り出されたあらかじめ知ることのできない動きに身を任せる。」—p. 4

 「希望という方法」を抽象化してしまうことにはあまり意味がない。というのも「希望という方法」は、具体的な状況における具体的な知識の具体的な方向転換においてのみ意味をもつからである。そして知識の様式や種類によって、また、状況に応じて、「希望という方法」は少しずつ違った形をとる。したがって「希望という方法」の本当の意味は、さまざまな具体的な状況における<まだ - ない>への方向転換に見られる微妙な差異にある。そうした差異への感受性を養うことこそ、「希望という方法」を磨くためのトレーニングなのである。こうした感受性を抽象的な観念的な思考のプロセスだけで養うことは不可能である。ここに人類学的な想像力を通じた「具体的なもの」との出会いの意義がある。

 ここで、「具体的」というときに何を示しているかを明らかにしておく必要があるだろう。人類学は、具体的な人間の、具体的な行動を観察しそれを分析することによって、人類の文化と社会についての一般的な理論を構築してきた。しかし、本書で言うところの具体性は、「事実」と「理論」の関係という文脈における具体性とは少し違う。[...]本書で「具体的なもの」と言うとき、それは先住民系フィジー人たちの知識だけでなく、人類学的知識や、哲学的知識を含むのである。あえて挑発的な言い方をすれば、本書では理論、分析、そして客観性の名ものと、対象と距離を置き、客観的な知識と主観的な知識を序列化する作業と決別する。本書には、事実を一般化して理論化するための分析はない。より正確に言えば、そのような分析(そしてその結果として生ずる知識の序列化)に変わるものとして提示されるのが「希望という方法」なのである。—p. 5-6

 希望は知の方法であり、その希望についての知識にできることは、<まだ - ない>ものへ再度方向転換することだけである。—p. 7

 希望をめぐる私の探求は、分析上の同時性を達成することが不可能であることを出発点とするものである。—p. 44

 ここで希望の問題は、当然の帰結として、神の問題、すなわち、人間の行為主体性の「限界」の問題を想起させる。—p. 45

 問題としての希望をめぐって、多くの哲学者が道徳的な信仰に解決策を求めたとすれば、私の考えでは、希望を方法としてとらえ直すことは、たんにその方法を新たな地平に応用し、反復複製することを要請するものである。—p.

65

[...]不確定性は、達成されるべきものであり、所与の状態ではない[...]—p. 70

 希望は絶対に失望させうるものでなければならない。第一に、希望は前方に向かって、未来的なものの中へと開かれているからであり、すでに現存しているものは考えないからである。それゆえ、希望は純然と宙に浮いた存在であり、反復ではなくて変化するものに賭けることによって、この変化するものと、それなしにどんな新しいものも存在しない偶然的なものとを併せもつのである(ブロッホ

一九八六:二〇二)。—p. 134

 エスター・グディは、「応答を促し、必要とし、もしかしたら要求さえもする」と指摘し、問答という形の会話を贈与交換になぞらえた。「質問が不完全であることは、マリノフスキーが示した贈与と似ているところがある。質問と同じように、贈与も返礼を要求する。どちらも相互行為を促す。つまり、どちらも二者を社会的交換に入るよう強制する社会的装置として見ることが可能なのである」(Goody 1978:23)—p. 176

 希望は、学問的知識を含めてあらゆる知識形成に共通して働く方法であると、本書で論じてきた。—p. 229

 希望という方法は、知識の時間的方向性を根底的に転換し、それを通じて過去の希望を現在において反復複製する作業だといえる。—p. 230

 もっと最近では、人類学者たちの知的実践と彼らの研究対象の人びとの知的実践のあいだの距離が狭まったことへの憂慮と興味関心が、より方法論的な問題として表現されている。—p. 232

 私が「創発(emergence)」という呼ぶ広く受け入れられた美的感覚は、世界ばかりか、その分析をも暫定的で、未決定で、開放的なものとするのである。人類学的分析は、古いものと新しいものの暫定的な「寄せ集め(assemblages)」に焦点を当てることになるのみならず、それ自体が寄せ集めとなる(Ong and Collier 2005; Rabinow 1999)。—p. 240-241

 重要なことは、創発という美的感覚は、それに付随して暫定性、不確定性、および開放性に注目するが、それは、知識とその対象との一致を達成する可能性を閉ざすものであるということである。皮肉にも、このような一致と同時性を達成することに<失敗する>ことこそ(Riles 2000)、創発という美的感覚の中心にあるものなのである。—p. 242-243