村上春樹『東京綺譚集』

東京奇譚集 (新潮文庫)

東京奇譚集 (新潮文庫)

かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです。壁に突き当たったときにはいつもそのルールに従ってきたし、長い目で見ればそれが良い結果を生んだと思う。そのときはきつかったとしてもね—p. 34

ピアノを弾くのが楽しいと思ったことは、ただの一度もなかったと思う。僕はただ問題点を克服することを目的にピアノを弾いていた。ミスタッチをしないように、指がもつれないように。人に感心されるように。でもピアニストになるのをあきらめてから、音楽を演奏する喜びみたいなものがやっと理解できたんだ。音楽というのは素晴らしいものなんだと思った。まるで重い荷物を肩から下ろしたみたいな感じだったね。担いでいるあいだは、そんなものを担いでいること自体に気づかなかったんだけれど—p. 40

短いあいだに僕の人生はがらりと変わってしまったんだ。そこから振り落とされないように、なんとかしがみついているのがやっとだった。すごく怯えていたし、怖くてたまらなかった。そんなとき、他人に説明なんてできない。世界からずり落ちていくような気がした。だから僕はただわかってもらいたかったんだ。そしてしっかり抱きしめてもらいたかった。理屈やら説明やら、そんなものを抜きで。—p. 42

偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らのほうに強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。その図形や意味合いが鮮やかに読みとれるようになる。そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなあ』と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないのにもかかわらず。—p. 48

「胡桃沢さん」と私は、天井の一角に向かって、声を出して語りかけた、「現実の世界にようこそ戻られました。不安神経症のお母さんと、アイスピックみたいなヒールの靴を履いた奥さんと、メリルリンチに囲まれた美しい三角形の世界に」—p. 138

職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくてー153

たとえば、風は意志を持っている。私たちはふだんそんなことに気がつかないで生きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。風はひとつのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内側にあるすべてを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく—p. 166-167

「何よりも素晴らしいのは、そこにいると、自分という人間が変化を遂げることです」と彼女はインタビュアーに語った。「というか、変化を遂げないことには生き延びていけないのです。高い場所に出ると、そこにいるのはただ私と風だけです。ほかには何もありません。風が私を包み、私を揺さぶります。風が私というものを理解します。同時に、私は風を理解します。そして私たちはお互いを受け入れ、ともに生きていくことに決めるのです。私と風だけ——ほかのものが入り込む余地はありません。私が好きなのはそういう瞬間です。いいえ、恐怖は感じません。一度高い場所に足を踏み出し、その集中の中にすっぽりと入ってしまえば、恐怖は消えています。私たちは親密な空白の中にいます。私はそういう瞬間が何よりも好きなのです」—p. 177

「わたしは名前をとる猿なのです。」と猿は言った。「それがわたしの病です。名前がそこにあれば、とらずにはいられません。もちろん誰の名前でもいいというわけではありません。わたしが心を惹かれる名前があります。とりわけ心を惹かれる人の名前があります。そういう名前があると、それを手に入れずにはいられないのです。[...]」—p. 229