ベルグソン『思想と動くもの』

思想と動くもの (岩波文庫)

思想と動くもの (岩波文庫)

分析や科学がなぜいつになっても運動や生成をとらえられないことをスパパーン!と論じてまっすね〜。「直観」という落としどころがちょっと「えー」って感じやけど。

【引用】

 時間は創造および選択の乗り物ではないであろうか。時間の実在は事物のうちに不確定があるということを証明しているのではあるまいか。時間はこの不確定そのものではあるまいか。—p. 141

 最初ゼノンが、次いで形而上学者一般が、運動とか変化とか考えたものは変化でも運動でもないこと、形而上学者が変化のなかから取りあげているのは変化しないものであり、運動のなかから取りあげているのは運動しないものだということ、形而上学者は運動や変化の直接で十分な知覚のつもりでこの知覚の結晶、実践を目的とする個体化を考えていることを確立することができるならば、[...]その時こそ、ゼノンが指摘したような矛盾から脱却し、カントがわれわれの日常の認識には付きものだと信じていた相対性から解放するためには(いやわれわれはすでにそこから抜け出したのでありますから)、なにも変化から遊離する必要はありますまい(われわれは少し遊離しすぎているのでありますから)、それとは逆に変化と持続の元のままの動きを取り戻さなければなりますまい。—p. 221

 内にせよ外にせよ、われわれにせよ物にせよ、事象は動きそのものであります。私はそれを言い表わすのに、変化はあるが変化する物はないと言うのです。—p. 234

 変化の個体性は、さまざまな動きのあいだの一時的な妥協にほかならない。—p. 235

 ある視点からとった表現〔表象〕、ある記号をもって試みた翻訳は、眺められた物もしくは記号で表現しようとした対象と比較してどこまでも不完全である。ところが絶対が完全だというのは、絶対が完全にそのままだという意味である。

 人がよく絶対と無限とを同一に見ているのも、もちろん同じ理由による。—p. 252

 分析は動かないものを相手にしてはたらくのに、直観は動きのなかに、あるいは結局同じことになるが、持続のなかに身を置くというのである。そこに直観と分析とのはっきりした境界線がある。—p. 280

 停止をいくら多くしたところでそれによって動きを作るわけにはいかない。—p. 294

 直観の忘却から、哲学者のみならず科学者までが科学的認識の「相対性」と呼ぶものが出てくる。相対的なのは既存の概念による、つまり固定したものから動くものへ向かう記号的認識であって、動いているもののうちに身を置き、事物の生命そのものをとる直観的認識ではない。この直観は絶対に到達する。 —p. 298