岡真理『記憶/物語』

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶が——あるいは記憶に媒介された出来事が——「私」の意志とは無関係に、わたしにやって来る。ここでは、「記憶」こそが主体である。そして、「記憶」のこの到来に対して、「私」は徹底的に無力であり、受動的である。—p. 5

無意識な欲望によって否認される者たち、リアルな完結した物語から排除される者たちこそ、「他者」ではないだろうか。—p. 23

出来事の現実<リアリティ>とは、まさにリアルに再現される<現実>からこぼれおちるところにあるのではないか、という問いはスピルバーグには存在しない。—p. 27

リアリズムの欲望とは、言葉では説明できない<出来事>、それゆえ再現不可能な<現実>、<出来事>の余剰、「他者」の存在の否定と結びついている。—p. 29

その身を切り刻むような証言だからこそ、唯一無比の証言であり、それゆえそこには、何人にも否定し得ない<出来事>の<真実>が語られているのだと、もし、私たちが語るとすれば、それは、私たち自身が、苦痛を伴わない証言では<真実>が十分に語られていない、と信じていることになりはしないだろうか。これは、拷問の論理、ではないのだろうか。—p. 32

映像のレベル、物語の表面的なレベルでは、私たちは、その「リアル」な再現によって<出来事>の暴力性を追体験したような気持ちになる。しかし、語りの真相において、物語が否定しているのは、まさに<出来事>の暴力性そのものなのである。これらの作品が、多くの観客を動員したのは、そこにこそ理由があるのではないか。私たちは、<出来事>を、深い人間的共感をもって理解する。<出来事>が暴力的に到来して自らの主体性を奪ってしまう心配はない。むしろ作品は、観客を、<出来事>の「真実」を領有する主体とする。「ヒューマニズム」と「エンターテイメント」の見事な融合。だが、それは、誰の、どのような欲望に奉仕しているのだろうか。—P. 41

<出来事>の記憶、<出来事>の痕跡、それは偏在している。しかし、「それ」はつねに、主体的な意識が捉え損ねるどこかにある。—P. 97

「難民」——<出来事>をナショナルな歴史/物語として、決して領有しない者たち。人間が<出来事>を領有するのではなく、<出来事>が人間を領有する、そのような<出来事>を生きる者たち。<出来事>の記憶を「物語」として領有するのではなく、<出来事>として分有するのは、この、難民的生を生きる者たちだけだ。<出来事>の記憶の分有の可能性とは、私たちが「難民」に生成すること、難民的生を生きることなのである。—p. 112