ドストエフスキー『白夜』

白夜 (角川文庫クラシックス)

白夜 (角川文庫クラシックス)

「身の上話!」と私はびっくりして叫んだ。「身の上話ですって! いったい誰がそんなことを言ったんです、ぼくに身の上話があるなんて? ぼくには身の上話なんてありゃしませんよ……」—p. 28

空想のとりことなった彼の眼から見ればですね、ナースチェンカ、ぼくやあなたなんかは、じつに怠惰な、のろのろとした、元気のない生活を送っているんです。彼の眼から見ればわれわれはみんな自分たちの運命に不満で、自分たちの生活にうんざりしているんですよ! それに実際、まあ見てごらんなさい、正直なところわれわれのあいだにあるものはなにもかも、ちょっと見たところ、まるで怒ってでもいるように、冷たく、気むずかしい顔をしているじゃありませんか……。『可哀そうな奴らだ!』とわれらの空想家は考える。—p. 42

情熱的な怠け者にとっては、ぼくやあなたがこんなにも憧れているあの生活なんか、まるで問題じゃないんですよ! 彼はそんなものは貧弱な、みじめな生活だと思っています。そして彼にとっても、ことによると、いつかは必ず悲しみの瞬間がやってくる、このみじめな生活のたった一日のために、自分の幻想的な長い年月を、しかも喜びのためでもなく、幸福のためでもなく、ぜんぶ投げだすことになろうなどとは夢にも気がつかないんですからねえ。そしてこの悲しみと、後悔と、取り返しのつかない嘆きの瞬間には、彼はいまさら選択なぞする気にはなれないのです。しかしいまのところはまだそれは、その恐ろしい瞬間はやってこない——そこで彼は何ひとつ希望しようとはしない。なぜならば、彼は希望を超越しているからです、彼にはすべてが備わっているからです、充ち足りているからです、また彼自身がその生活の芸術家であり、時々刻々、自分の新しい希望どおりに生活を創造しているからなんです。—p. 43-44

なにか知らない魔力にでもあやつられたように、なにか未知のものの気紛れにでも踊らされているように、自然に脈が早くなり、空想家の眼から涙がほとばしり、涙にぬれた蒼白い頬は燃え、全身がどうにもならない喜びでみたされるのは、いったいどういうわけでしょうか?—p. 44

われわれは自分が不幸なときには、他人の不幸をより強く感じるものなのだ。感情が割れずに、かえって集中するのである……。—p. 77

「どんなに愛し合ってるかですって!」と私は叫んだ。
『ああ、ナースチェンカ、ナースチェンカ!』と私は胸の中で考えた。『君のその一言にどんなに多くの意味が含まれていることか! そういう愛はね、ナースチェンカ、時と場合によっては、相手のハートをヒヤリとさせ、心苦しくさせるものなんですよ。君の手は冷たいが、ぼくの手は火のように熱い。なんて君は盲目なんだろうな、ナースチェンカ!……。ああ、幸福な人間というものは、時によるとなんてやりきれないものなんだろう! しかしぼくは君に腹を立てるわけにはいかなかったよ!……』—p. 80

誰にとってもこの瞬間の彼女をだますくらい楽なことはなかったにちがいない。それにどんな人間でもこうした瞬間には、たとえどんな慰めの言葉にも喜んで耳をかし、自分を納得させる幻影でもあれば、たまらなく嬉しい気持ちになるものなのだ。—p. 83