村上春樹『アフターダーク』

アフターダーク

アフターダーク

「[…]裁判という制度そのものが、僕の目には、ひとつの特殊な、異様な生き物として映るようになった。」
「異様な生き物?」
「たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。たくましい生命力を持ち、たくさんの長い足をくねらせて、暗い海の中をどこかに進んでいく。僕は裁判を傍聴しながら、そういう生き物の姿を想像しないわけにはいかなかった。そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとることもあるし、法律というかたちをとることもある。もっとややこしい、やっかいなかたちをとることもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいうつを殺すことは誰にもできない。あまりにも強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。僕がそのときに感じたのは、深い恐怖だ。それから、どれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃れることはできないんだという絶望感みたいなもの。そいつはね、僕が僕であり、君が君であることなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう」—p. 138-139

「僕が言いたいのは、たぶんこういうことだ。一人の人間が、たとえどのような人間であれ、巨大なタコのような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれていく。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」—p. 141

「一目見たときから、その子と友達になりたいと思ったの。とても強く。そして私たちは、もっと違う場所で、違うときに会っていたら、きっと仲のいい友だちになれたと思うんだ。私が誰かに対してそんな風に感じることって、あまりないのよ。あまりっていうか、全然っていうか」
「うん」
「でもいくらそう思っても、私たちの住んでいる世界はあまりにも違いすぎている。それはとても私の手には負えないことよね。どれだけがんばってみても」
「そうだね」
「でもね、ほんの少しの時間しか会わなかったし、ほとんど話もしていないのに、今ではなんだかあの女の子が、私の中に住み着いてしまったみたいな気がするの。彼女が私の一部になっているような。うまく言えないんだけど」
「君はその女の子の痛みを感じることができる」
「そうかもしれない」—p. 186-187

「僕の人生のモットーだ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」—p. 203

「僕の好きなものはいつも問題を抱えているみたいだ」—p. 215

「マリちゃん。私らの立っている地面いうのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん。それでいったん抜けてしもたらもうおしまい、二度と元には戻れん。あとは、その下の薄暗い世界で一人で生きていくしかないねん」—p. 227

「努力するということが?」
「努力できるということが」—p. 239

「[…]人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとっては別にどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、全然役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」—p. 244

「ねえ、僕らの人生は、明るいか暗いかで単純に分けられているわけじゃないんだ。そのあいだには陰影という中間地帯がある。その陰影の段階を認識し、理解するのが、健全な知性だ。そして健全な知性を獲得するには、それなりの時間と労力が必要とされる。[…]」—p. 267-268

私たちはひとつの純粋な視点となって、街の上空にいる。目にしているのは、目覚めつつある巨大な都市の情景だ。様々な色に塗られた通勤列車が思い思いの方向に動き、多くの人々をひとつの場所から別の場所へと運んでいる。運ばれている彼らは、一人一人違った顔と精神をもつ人間であるのと同時に、集合体の名もなき部分だ。彼らはそのような二義性を巧妙に、便宜的に使い分けながら、的確に素早く朝の儀式をこなしていく。歯を磨き、髭を剃り、ネクタイを選び、口紅をつける。テレビのニュースをチェックし、家族と言葉を交わし、食事をし、排便をする。—p. 283-284