ジル・ドゥルーズ『感覚の論理:画家フランシス・ベーコン論』

感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論

感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論

物語は説明の相関者である。二つの形象の間では、図解し説明された総体に生命を与えるため、常に一種の因果話が入り込む、あるいは入り込む傾向がある。隔離することがそれゆえ、再現的描写と縁を切り、物語を破壊し、説明を妨げ、形態を解放するための、要するに事実とのみ関わるための、最も単純で、また十分ではないとしても必要な手段である。—p. 4

ベーコンの絵に見られる一連の痙攣はすべて、情交、嘔吐、排泄といった類のものであり、結局それは常に身体、それも自らの器官のいずれかを手だてにして逃れ出、平面に、つまり物質的質料的構造に再び加わろうとする身体のそれである。形体の領域においては影もまた身体と同等の存在をもつ、とベーコンはしばしば語っている。しかし影がそうした存在を獲得することができるのは、それが身体から逃れ出たからにすぎず、したがって影は輪郭のなかに位置づけられている何らかの点を通って逃れ出た身体である。それから叫びもまた同様である。ベーコンの叫び、それは、身体全体が口を通って逃れ出るための戦略であり、まさしく身体の発作である。—p. 16

形体は単に隔離された身体ではなく、逃れ出る歪曲された身体である。—p. 18

獣肉は死せる人肉ではない。それはあらゆる苦痛をなお保持し、生ける人肉のあらゆる色艶を自らの内に引き継いでいる。なんと多くの痙攣する苦痛、傷つきやすさか。[…]ベーコンは「動物たちに憐れみを」とは言わない。それどころかむしろ、苦悩する人はすべて獣肉をもつと言う。獣肉は人と獣の共有地帯であり、両者の識別不可能な地帯である。—p. 24

呻吟する人はいわば獣である。呻吟する動物はまた人間である。これこそ生成の実在相である。芸術や政治や宗教やあるいは何事であれ、そうしたものに関して革新的な人間で、自分が獣以外の何ものでもないというあの極限の一瞬、死に行く子牛のその死に対してのみ責任があるというのでは単になく、死に行く子牛の存在を前にそれを見ただけで同じ仲間としてなお責任があるという、あの極限の一瞬を感じなかった人がいるであろうか。—p. 25

すべての身体は叫ぶ口を通って逃れ出る。—p. 27

象形化(すなわち図解的であると同時に物語的であるもの)の作用を乗り越える二つの方法がある。すなわち抽象的形態(la forme abstraite)へと向かうか、あるいは形体(la Figure)へと向かうかである。—p. 33

極限において、感覚を惹起するとともにまた感覚を受容するのは同一の(身)体であり、またこの同一の(身)体こそが(客)体であると同時にまた(主)体となる。観照者としての私、この私が感覚を体験するには、絵の中に入ってゆき、感じるものと感じられるものとの統一に近づくしかない。—p. 33-34

積極的にベーコンは、感覚(の作用)、それは或る「次元」から他の次元へ、ある「水準」から他の水準へ、ある「領野」から他の領野へ移り行くものである、と絶えず主張する。それゆえ感覚は歪曲(déformation)の愛人、身体の歪曲を司る者となる。そしてこの観点に立つ時、具象絵画抽象絵画に対して同一の非難を向けることが可能となる。すなわち両者は共に大脳を通過するものであり、神経系に直接働きかけることはない。両者は共に感覚に到達せず、形態を解放しない。—p. 35

諸感覚機能の原初的統一を見えるようにし、多感覚的形体を視覚的に現出せしめることが画家の仕事となるだろう。—p. 40

感覚の作用は振動である。よく知られているように、卵は器官的表象「以前の」身体の状態、すなわち軸とベクトル、勾配、部位、運動学的動き、力学的傾向等をまさに提示しており、そうした様々な状態に比べれば、形態は偶然的で、付随的である。「口なし。舌なし。歯なし。咽頭なし。食道なし。胃なし。腸なし。肛門なし」。まさしく非器官的生命である。というのも器官系は生命ではなく、生命を幽閉するからである。身体は徹底的に生きているがしかし、器官的組織体にではない。かくて感覚の作用もまた、それが器官系を通過して身体にまで到達すると、極端で痙攣的な様相を呈し、器官的組織体的行動の限界を越える。肉(体)のただ中で、感覚の作用は神経的波動や生命的興奮に直接関わり合う。多くの点でベーコンはアルトーと交差すると考えることができる。すなわち形体、それはまさしく器官なき身体である(身体のために器官系を解体し、頭部のために顔面を解体する)。また器官なき身体とは肉と神経である。波動がその身体を経巡り、その中に様々な水準を描く。感覚はいわば身体に働きかける様々な力と波動との出会い、「情動的運動競技」、「息の叫び」のようなものである。またこのようにして身体に関連づけられる時、感覚は表象的であることをやめ、それ自身実在的となる。—p. 44

絵画はヒステリーである、あるいはヒステリーを回心させる。なぜなら絵画は現在を直接見ることを可能にするからである。色や線によって絵画は眼にリビドーを備給する。しかし眼、それを絵画は特定の器官として扱わない。色と線を描写の作用から解放することで同時に絵画は、眼を器官系への従属から解放し、固有の資質を与えられた特定の器官としてのその特性から解放する。眼は潜在的に不確定な多目的的器官となり、かくて器官なき身体、すなわち純粋現在としての形体を見る。—p. 50

明らかに音楽はわれわれの身体を深く横断し、われわれの腹や肺……等に耳をつける。音楽は波動や神経過敏によく通じている。しかしまさしく音楽はわれわれの身体を、つまり(身)体そのものを、他の構成要素へと導いて行く。音楽は身体からその惰性を、その現在の物質性を取り除く。それは身体を肉体から離脱させ抽象化する。—p. 51

奇妙にも、能動的なものは、下降するもの、倒れるものである。能動的なもの、それは落下である。しかしそれは空間における下降、拡張としての降下ではない。それは感覚作用の移行としての、感覚作用の内に含まれる水準の差異としての下降である。—p. 77

落下は展開するものすべてである(減少による展開も存在する)。落下はまさしく能動的リズムである。—p. 78

画家が純白の面を前にしていると考えるのは誤りである。象形的信仰はこの誤りから生じる。事実、もし画家が真新しい面を前にしているとすれば、彼はそこに、モデルとして機能する外部の対象を再生することも可能であろう。しかし事情はそうではない。画家は、頭の中、自分の周り、さらにはアトリエの中に多くのものをもっている。ところで彼が頭の中や自分の周りにもっているものはすべて、彼がその仕事を始める前からすでに、多少は潜在的に、そして多少は顕在的に、カンバスの中に存在している。それらはすべてカンバスの上に、現実的あるいは潜在的イメージとして現在している。したがって画家の任務は、真白な画面を埋めることではなく、むしろ空にし、取り除き、拭い去ることにある。—p. 81

画家の言葉をわれわれは十分に傾聴していない。画家は言う、自分たちはすでにカンバスの中にいるのだ、と。そこにおいて画家は、カンバスを占領している、それも前もって占領しているあらゆる象形的で蓋然性的な所与と出会う。画家とこれら所与との間に、カンバスにおけるまさに一種の闘争が存在する。それゆえ全面的に絵画に属しながら、しかも書く行為に先行する一種の準備作業が必要となる。[...]この準備作業は眼にはみえず、黙したままでなされるが、にもかかわらず非常に激しいものである。したがって画く行為は、その作業に対して、いわば一種の事後性「履歴現象」として現われる。—p. 93

標識図[(ダイアグラム)]、そしてその無意志的な手覚の次元は、あらゆる表象的座標を破砕するのに役立つだろう。—p. 113

近代絵画が始まるのは、人間が自分自身をもはや本質とは少しもみなさず、むしろ一種の偶発事とみなすときである。—p. 117

原子芸術は有機的描写を二つの方向で乗り越える。すなわち動く身体のマッスによるか、それとも平塗りされた、単調な線の方向の変更や速さによるかである。ヴォリンガーはこの激しい線の法則を見出した。すなわちそれは一種の生命である。しかし最も風変わりで最も強烈な生、非有機的な生命力である。[...]輪郭に関していえば、線はいかなる輪郭も限界づけることはなく、また何ものかの輪郭となることも決してない。というのもその線は無限の運動によって消え去るか、それとも、その線のみが、マッスの動勢の内的限界として、リボンのような、一種の輪郭を手にすることになるからである。—p. 121

抽象化を全く避けながら色彩主義は、象形化と物語を同時に追い払い、純粋な状態の絵画的「行為」へと無限に近付く。かくてそこには物語られるべきものはもはや何も存在しない。この事実・この行為、それは視覚の触覚的機能の構成あるいは再構成である。—p. 125

標識図[(ダイアグラム)]は決して光学的表面効果ではなく、鎖を解かれた手覚的力である。それは狂乱的部位であり、そこでは手はもはや眼に導かれるのではなく、視覚に対して別の一つの意志として自らを上置し、押し付ける。この別の意志とは、また偶然として、偶発性、自動性、無意志として提示される。—p. 129

「趣味、それは潜在的で創造的な力でありうるのだろうか、流行に対する単なる移り気なのではなかろうか」—p. 142(マイケル・フリードの引用)

一見明白なのは象形化の作用でしかない。形体が化け物じみて醜悪にみえるというのもすでに、執拗につきまとうその象形化の作用の観点からにすぎず、それらを「形体的に」眺めるや、それら形体は、その時、それらが果たす日々の平凡なつとめやそれらが直面する一時的な力に応じて最も自然な姿勢を示しているが故に、醜悪ではなくなる。—p. 143

眼と手の関係およびこの関係が経験する様々な価値的側面を形容し、性格づけるためには、眼は判断し、手が働くというだけでは確かに十分ではない。手と眼の関係はそれ以上に無限に豊かであり、力あふれる緊張、当然考えられる逆転、器官の交換や代替を経験する—p. 145

ベーコンの標識図の法則は以下の通りである。「象形的形態から出発し、それを混濁・妨害し、破壊するために、標識図が介入し、そしてそこから全く別の本性をもつ一形態、形体と名づけられた一形態が出立たねばならない」—p. 146

象形的輪郭線を混濁・妨害するには、それを延長し、線影をつけること、すなわちそれら輪郭線の間に新しい距離、新しい関係を導入することである。—p. 149

「非常に多くの場合、他の何よりも、無意志的目印が遥かにより深く示唆的である。そしてまさにその瞬間にあなたは、あらゆる種類のことが可能だということが分かるでしょう—そうした目印を描いているまさにその瞬間にあなたは感じますか? —いいえ、まず目印が描かれます。それから一種の標識図を眺めるようにそれを眺めます。そして、この標識図の内部において、あらゆる種類の行為(こと)の可能性が根を下ろすのが見られます。これは難しい問題です。私にはうまく説明できません。」—p. 158(ベーコンの引用)