野矢茂樹『無限論の教室』

無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)

タジマ先生に言わせれば、線は点の寄せ集め(これを先生は「寄せ集め解釈」と言っていた)ではない。点から線が作られるのではなく、むしろ線から点が作られる。まず、線があり、任意の箇所でその線を切断する。すると、その切り口として点が作られる。(「切り口解釈」)。―p. 30-31

寄せ集め解釈は、線分には無限個の点がすでに存在していると考えます。それに対して切り口解釈の方は、あくまでも可能性としての無限しか考えません。線分を切断すれば点が取り出せる。そしてそれはいつまでも続けていける。その可能性こそが無限であり、その可能性だけが無限だと言うのです。無限のものがそこにあるのだと考える立場から捉えられた無限は『実無限』と呼ばれ、可能性としてのみ考えられるとされる無限は『可能無限』と呼ばれます。実無限派にしてみれば、可能無限などは本物の無限ではありませんし、可能無限派にしてみれば、実無限などは妄想の産物にすぎません。無限が完結した実体として存在するなど、可能無限派にしてみれば混乱し矛盾した概念でしかないのです。」―p. 33

「実無限と可能無限を最初に区別したのはアリストテレスなのですが、彼は、可能無限を時間上に限りなく展開していく無限として、実無限を同時的に存在する無限として説明しています。そしてアリストテレス自らは可能無限の立場に立つのです。[...]」―p. 33

「有限主義というのがあります。これは有限のところで頭打ちにしてしまって、可能性としての無限も考えないんですね。可能無限の立場は有限主義とは異なります。天井知らずの有限主義と言ってよいかもしれませんが、あまりうまい言い方とも思えません。展開の果てしなき可能性、それこそが無限だと考えるのです。」―p. 34

「トーモロコシから粒を取り出すようなことなら、あらかじめ粒がついていなければ取り出せませんね。しかし、大理石の塊から彫刻を彫るとき、その彫刻はすでにその大理石の内にあったのでしょうか。これはつまり、取り出すのではなく、作り出すわけですね。線分から点を切り取ると言ったのも彫刻の場合と同じようで、埋まっているものを拾いだすのではなく、作るのです。大理石の塊はそこから姿を切り出してくる無限の可能性を秘めています。しかし、そこにすでに考える人が埋まっていると考える必要はない。実無限の立場を前提にしなくても、可能無限の立場は自立できると思います」―p. 37-38